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2009年2月

2009.02.20

卵と私とうずらのひな

 こちらでそろそろ図書館ネタを書きたいなー、と思いつつ、実は年明けから軽く体調を崩していたりするので、つい無難なネタに走ってしまいますが。
 本日は「@nifty:デイリーポータルZ:スーパーのうずら卵から、ひな鳥ピヨピヨ!」を読んでちょっとむむぅ、となっております。いえ、うずらのひなは実に可愛くて、これをぬくぬくさせて凍えさせないようにして、一所懸命育てるのは大変だけどさぞかしやり甲斐のある仕事だろうな、とは思うのですが、それはそれとして。

 むむぅの原因には、有精卵で中でひなが育っているかも知れない卵を、透かし見もせず割っちゃう(しかも1個は「当たり」だった)なんて!と言うしょんぼりもありますが、どちらかと言えば、
「『当たる』恐れがあるのなら、もううずらの卵なんて買わない」
という気持ちが強く働いております。

 元々鶏卵に比べてうずら卵はそんなに買う方ではありませんが、何せ自分、鶏卵にも思春期の一時期、生卵の白身のどろりとした粘液の感触に、「なり損ないの生命」だの、産んだ雌鳥の「女性」だのを感じ取ってしまい、生卵や温泉卵の白身が嫌いだった時期がある位です。ましてや中に雄鳥由来の成分が入っていて、しかも中に「生き物がいる」可能性が0ではない有精卵などもってのほかでした。
 ちょうどその頃、向田邦子さんの昭和初期の子供時代を素材にしたエッセイで、朝食の時に「中にいる」卵が混じっていて、割ったら出てきた、という話を読んでしまったというのも大きかったかも知れません。恐らく、卵=生命の素と過剰に意識し過ぎた結果だったのでしょう。もっとも、白身と黄身を分けて黄身だけにすれば食べられたのは今考えると不思議なことですけれど。
 現在は流石に白身も美味しくいただきますし、温泉卵に舌鼓を打つようになっているものの、もし鶏卵の有精卵を供される機会があったとしても、多分自分の手で割る度胸はないと思います。まあ、いくら何でも中に「いる」場合、無精卵とは持った時の感触が違うでしょうから分かるとは思いますが。
 とにかくもう、うずらの生卵は自分では買わないでしょう、ええ。……ボイル・殻剥き済みの缶詰やレトルトならきっと買うけれど。中華丼に入っているうずらの卵、ぷりっ、ほくっとして美味しいですよね。

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2009.02.09

屋形船で撃沈(乗客1名のみ)

 土曜の晩、隅田川の屋形船で催された連れ合いの職場の宴席に参加してきました。
 しかし!正味2時間と少しの宴会の間、普通に座っていられたのは50分程度。残りの1時間以上はトイレに駆け込んだり、コート被ってガチガチ震えながら船室の隅に転がったりしていました。……そう、船酔いです。
 いくらごく軽く体調を崩して貧血気味だったとは言え、まさか一滴も飲んでないのに、乗船直後にエンジンがかかった時の横揺れであっという間に来るとは予想もしていませんでした。確かに、幼少のみぎりにカーフェリーに30時間乗船した時には船酔いで寝込んだことがありましたが、わずか2時間強、しかも川なら大丈夫、と高をくくっていた自分が甘かったようです。
 でも、自分の船が和服の接待嬢(芸者さんではなくコンパニオンと推定)を複数乗せた別の船とすれ違った時だけは、意地でも窓辺に這いずり上がってガン見しました。こんな揺れる船に乗ってお酌して、オジさん達(あくまで推定)の話し相手まで務めるなんて、あの人達凄いです。
 あと、宴会料理の半分には箸を付けられず残さざるを得ませんでしたが、お造り(エビ等)と天ぷら(アナゴ(東京湾産)、キス、エビ等々)とシジミ汁だけは何としてでも血肉にしてやる、とお腹に納め、無事血肉にすることができました。多分、同席していた先輩が常備薬セットから出してくれた、船酔い最中のむかつき止めと、収束後の消化薬がバッチリ効いたおかげだと思います。ありがたいことです。
 それにしても、屋形船から眺める薄暮から徐々に夜景へと移ろっていく河岸の風景は実に美しかったです。また、息絶え絶えで横になっている時、窓から天空の高みに見えたお月様の光が綺麗で、へへへ、この船の中であの月は私だけのものだ、と心の中で呟いたりしていました。いつか雪辱を晴らしたい気もとてもしますが、しばらく屋形船は封印するつもりです。
 ちなみにその夜は秋葉原のホテルに宿を取っていたので、一晩ぬくぬくして体調回復に努めることができたのでありました。弱った身体には、温かいシャワーときめ細やかにスプリングの効いたベッドが最高です。

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2009.02.07

レポートコピペ問題雑感

 今日、これから出かけるのであまり時間がないのだけど、「レポートコピペ問題の問題 - Ohnoblog 2」の記事に対するはてブの反応(の一部)を見てちょっと違和感を覚えたので。
 学校でちゃんと文章の書き方を教えてくれなかったのに、書けと言われても困るだろう、とか言う意見があるのだけれど、じゃあ、コピペする児童・生徒・学生は、これまで文章に出会った時、そこに何が書いてあって、書いた人が何を言いたいのかを気にしたことはなかったんだろうか?と激しく疑問。
 自分のブクマコメにも書いたんですが、コピペを容認し、学校での文章教育が行き届かなかったことに責任を求めるのは、子供達が自らの文章読解経験がいかに少ないかという事実と、これまでの文章との出会いで学んでこなかった事実を恥じないことを認めた上、更にそれを他人に責任転嫁しているに過ぎないと思うのです。
 まあ、元ブログにもあるように、学校のレポートとか読書感想文というのは単位や評価がもらえれば何でも良いし、また、相手方(先生方)を欺ける場合も存在するだろうから、一つの通過手段としてコピペを行うことをいとわない、という子供達は結構いると思います。先生方をどこかでなめてることには変わりないけど。
 あと、文章読解経験の無さを恥じる、という発想も多分ないのでしょう。それが何で恥ずかしいの?誰も教えてくれなかったのに?という感じで。……だから教えてくれなきゃ何一つできない、というのは恥ずかしいのに。そりゃ世の中には教わらないとできない、教わらずにやると恥をかく(時には命に関わる)ことも山ほど存在しますけど。そもそも「教えてくれない」じゃなくて分からなかったら訊けや、と思います。命に関わるような事態に遭遇する前に。

 ちなみに私自身、昨年とある著作権講習会の課題レポート執筆に大いに悩んで、コピペにもちょっと魔が差したのですが、それだと自分の意見が出せない!考えてる所が十分伝わらない!と断念。結局連れ合いに意見と添削を求めて、何度かの応酬の末、主催者に提出。昨日、無事講習会の修了証書をゲットすることができたことを申し添えます。自分の力だけで書けなかったことを未だに猛省中です。

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