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2009年7月

2009.07.29

突然、夏休み中。

 別にわざわざ宣言する必要もないかも知れませんが、一応業務連絡的に書いておきます。

 ただいま、夏休み中です。正確には今日は先日の休日出勤の代休で、明日から来週月曜日までお休みします。
 元々お盆は仕事で休めない予定だったのですが、更に職場で今年ちょっと役員を務めている労働組合がかなり大変なことになってしまった関係で、8~9月の予定が全く読めなくなったため、先週急遽、えい!取ってしまえ!と決めてしまいました。
 というわけで、こんなことになるとは思わなかったので土日は家族抜きで観劇の予定を突っ込んでしまった上、どこか旅の宿を取るなどもしておらず、色々真っ白なまま休みに突入してしまったわけですが、それはともかく、今週は若干連絡が取りづらくなるかも知れませんのでリアル知り合いはよろしくご了承ください。

 これだけでは何なので。テレビを午前中からぼんやり付けっぱなしにしていたら、昔の月9ドラマっぽい何かが始まりました。『ビーチボーイズ』って観てはいなかったけどタイトルだけは聞いたことがあります。調べたら本放送は丁度12年前だったようで。反町隆史の歌い方はやっぱり電池切れっぽいよな、そういや彼の『利家とまつ』の信長のすんばらしい演技が目眩ましになって、同じドラマに出ていた佐々成政こと山口さんの存在を完全スルーしちゃったんだよな、とか、この頃の広末涼子はふわふわきらきらして実に可愛かったんだなあ、とか、そういうことをつらつらと考えながらぼうっとテレビを眺めております。たまにはこんな日も良いです。

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2009.07.23

『図書館雑誌』のカード目録必要論を超訳の上ツッコミを入れてみる

 既に、

吉田壽治郎氏 緊急提案「カード目録」は不要なのか(「図書館雑誌」2009年7月号 p.478-480) - 読書ノートのつもり?なつれづれ日記

等で取り上げられてますが、『図書館雑誌』2009年7月号の「としょかんCHATTERBOX」の投稿「緊急提案『カード目録』は不要なのか」がかなりかっ飛ばしてます。
 実は上の記事を拝読した時、自分のブログのスペースをこんなネタに割いて、総務省の調査まで典拠に引いてツッコミを入れるとは何とマメで偉いんだろう、自分には到底真似できないな、とイヤミでなく本気でそう思っておりました。
 しかし、そのまま引っ込むのは何だか悔しかったのも事実です。とは言え、原文に逐一ツッこむには約2p分と長過ぎるので、自分流に原文を超訳して逐一ツッコミを入れる形で感想を書き残しておきます。

 何となく、以前も同じような不純な動機で書いた別ネタの記事があったように思いますが、この際気にしないことにします。

【以下、超訳】
※カギ括弧内は原文からの引用です。
 また、1~6の各章タイトルは原文のものをそのまま流用しています。

1.カード目録が消えた
図書館の資料検索用カード目録の消えた原因はOPACが現れたためであり、「OPACの便利さを認めるにはやぶさかではないが」、カード目録も有用であるのに何が原因で消えたかを考えてみた。
(1)カードケースの置き場の問題
(2)「OPACではダウンロードするだけで目録がほぼ出来上がるのであれば、分類や件名標目などを考える苦労から解放される」

 (1)はその時点で館内スペースに占めるカードケースの割合が大きくかつカードケースの優先順位が低かった(既に機械化目録への遡及入力が完了していた)故の処置であり、 決してカード目録、そして先輩方の業績を軽んじた結果ではないでしょう。
 分かって差し上げてください、図書館という場所は、貴殿の現役時代も、時代に合わせて柔軟に、とは言えないかもしれませんが、変化していくものではなかったですか?と一言申し上げたくなります。
 (2)は、MARCに付いている分類をそのまま使うという選択肢も十分ありだと思います。分類、装備も外注しているケースも多いでしょうし。
 ただ、件名については確かにOPACではかなり軽視されがちな部分ではあるので、そこは仰るとおりと思います。
 しかしまあ、かつてのようにカタロガーが(司書が)「分類や件名標目などを考え」る必要性が減った分の労力を回す先を一体何にするか?について、これはもう唯一絶対司書の技能が必要だろう、という決定打になるものが今に至るまで見つかっていないという事実は辛いですね。
 もっとも、そういう「この職種に唯一無二の技能」の決定打がなくても連綿と生き残っている職業はほかにもあるわけで、何で司書ばかりそういうことを言われなきゃあかんねん、とたまに思ったりもするわけですが。

2.カード目録が必要な人もいる
友人が市立図書館でカード目録がなく職員に「パネルタッチ端末」の操作を教わったが「あんな面倒なことができるものか」と怒り、書架の端から端まで見て回って探した。職員は一声かけてくれれば、というがいちいち依頼するには抵抗があり、従ってカード目録が必要。

 人生の大先輩にただケチを付けたくはありませんが、将来老後を生きていく上でこういう意地の張り方はしない方が良い、という反面教師にさせていただきます。

3.カード目録の利点
市立図書館(注:原文には組織実名掲載)の司書時代に感じたカード目録の利点
(1)OPAC端末は台数が少なく利用者を待たせる。カード目録は他の検索語から探せるので待たせない。
(2)類似標目が前後に並んでいるので、類書に行き当たる率が高い。
(3)OPACには分出という概念がないがカード目録にはある。
故にカード目録にはOPAC以上の効果があると思うのに、司書は手間のかかる分類、目録の作業から解放されホッとして、カード目録は消えたままである。

 (1)は図書館に端末台数を増やして、と要望すればいいんでないかい?という気もしますが、実際、通覧のし易さではスタンダードなOPACよりもカード目録に1日の長があると思います。書名順、著者名順、分類順でそれぞれカードが整理されているわけですし。
 問題は、ここで「OPACにはできない」としていることが、OPACにおいてもシステムの作り込みによりできる可能性がある、という視点が放棄されているという点にあるわけですが(^_^;)。
 ただ、自分はシステムライブラリアンではないので、これについて、「需要があるかはさておき、多分できるだろう」ということは分かっても「作ってみた」と言えないのは悔しいところです。
 なお、これはあくまで個人的好みではありますが、私はカード目録よりも冊子体目録の方がより通覧し易くて好きでした。当然冊子体目録には加除はないですし、立ったまま手に持って調べると重かったですが。

4.カード目録作りは大変
伝統がある大学図書館の中にはある年度より古いOPAC未収用の蔵書はカード目録を提供している館があるようだ。これは良心的。公共図書館も同様にすべき。
I市立図書館(注:原文では実名。恐らく筆者の旧勤務先)では謄写版で苦労して作ったカード目録をOPACと引き替えに簡単に廃止してしまった。

 仕事でカード目録を作ったことこそありませんが、大学の目録の演習では何枚も作らされたので、どれだけ大変かぐらいは分かるつもりです。また、ノスタルジーの存在も理解できます。
 しかし機械化目録=手のかからないもの、みたいな言い方には何か問題があるかと。違う所に手とお金をかけてるのですけど。例えばカード目録を廃棄した、ということはすなわち機械化目録への遡及入力が完了したということで、何故それに対する後輩の努力を誉めてくれないのか、と思うと寂しい気持ちになります。

5.今後の対策
「カード目録を必要とする利用者がある限り、利用者に提供しなければ、本当のサービスではないと考えるのである」
そこで、カードを書いた経験のない今の司書にカード目録の作り方の講習会を。大学でもカードの書ける司書の養成を。
「便利なコンピュータに惑わされて紙の台帳を疎かにしたつけが回ってきたということである」
「カード目録作りは重く苦しいものであるが」それでも不要ではない。

 ……そういった司書の、バリアフリーサービス精神を頑迷に拒んだのが、正に投稿者の方のお友達ではないかと(^_^;;)。
 それと、今の司書課程教育を知らないのですが、カード目録の書き方って教えないんでしょうか?就職して扱うのはコンピュータ目録が中心でしょうけれど、カードが現役の図書館もあると思いますし、また目録規則を理解するための基礎なので、教えていないわけはないと思いますが。
 職業の基礎を形作る古典的技術の勉強は当然大事ですが、現代の図書館業務を進める上において「システムライブラリアン」の域まで行かなくともコンピュータを使える司書の存在も重要なので、まずは古典と最新技術を並行して勉強すべき、と、かつてコンピュータ嫌いなぐうたら学生だったおかげで今苦しんでいる当事者としては考えるのです。

6.私の提案
(1)カード目録記入知識のある人に、目録規則を踏まえた入力と「パソコンに接続した印刷機」での原紙印刷ができるソフトを作ってもらう(原紙はハガキ用のコピー機で必要枚数印刷)。
(2)ただし「郷土資料、調査・研究用の資料などの検索」に必要な横断検索がカード目録ではできないのでCD-ROM化を前提としてコンピュータでのカード目録作りを。「これができておればCD-ROM化は不可能ではないと考えられる」。

 (1)の場合、ソフトを作らずとも既存のワープロソフトのテンプレで事足りるように思います。
 大体「ハガキ用のコピー機」って何だろう?ハガキ印刷も可能な複合機のこと?良く分かりません。
 (2)については、あえて横断検索が必要な対象として「郷土資料」等を事例として挙げる理由が良く分からず。ついでに「横断検索」って自館の他の検索データベースとか他館OPACとかを同時検索する場合に使う言葉のような??

 ……以上の要約文だけみると一見(あくまで一見ですが)真っ当な主張に見えるのが怖いです。
 今回の記事を読んで、何と申しますか、
「こんなノスタルジックな記事を載っけてJLAダメじゃん」
ではなく、
「投稿が少ないからってこんな記事を載せなければならないなんて、JLAも大変だな」
と同情する気持ちになりました。

 要約文はあくまで「超訳」なので、興味のある方は是非原文をどうぞ。
 ただ、この投稿は「としょかんCHATTERBOX」の掲載記事1通目でしたが、この約2p分で脱力・脱落して、2通目の、
「図書館員向け研修会・集会に聴覚障害者対応の環境(手話通訳、要約筆記等)を整備して欲しい」
という、1通目の「緊急提案」よりも緊急度、重要度ともに遥かに高そうな要望を読み逃がす人がいるのではないかというのが心配ではあります。

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2009.07.08

図書館で自習したこと?ないです。

 気になることがあっても、趣味に没頭したり仕事に精を出したりしていると、何かと周回遅れになりますね。悔しい。ついでに筆も遅いので、ネタを思いついてからそれが文章として完成されるまで何日もかかり、その間に元ネタはどんどん枯れていく状態に。
 それでも書きます。主に中高生が図書館の閲覧席を自習に使う問題について。

 私的には、図書館過疎な幼若年期を過ごしたので(こちらのエントリ参照)、それが自習場所であろうと何だろうと、思い立ったらすぐ行ける場所に図書館があるなんて、それだけで贅沢だ!と思ってしまうのです。なので、この話題、どうしても冷静に語れません。

 主に高校時代を振り返るに、自分が図書館まで行って勉強しなかった理由は、概ね次のとおりです。

  • 歩いて行ける場所に図書館がなかった(実際はあったのかも知れないが、そもそも図書館を往復するのに使う時間がもったいなかった)。
  • 当時家庭の事情で母親と2人暮らしであり、家族に騒音源となる小さな子供もペットもいなかった。ついでに自室はリビングの隣りで鍵も掛けられず、机に向かうしかない環境だった。
  • 学校図書館の席は空いていたが、学校図書館は自分にとっては「遊び場」であり「勉強場所」ではなかった。

 こういった条件と逆に、図書館環境に恵まれ、家は勉強向けの環境ではなく、かつ図書館で遊ばない(笑)という中高生が、図書館に勉強の場を求めるのだと思います。

 話を戻しますと、自分としては、自習・学習スペースが公設の施設に備わっているのは良いことだと思いますが、でもそれが図書館の閲覧室じゃなくても良いじゃないか、図書館に行った時、借りる程でもないけどじっくり本を眺めたいのに、何故そこで図書館の本を使わず勉強している!?と考えてしまうわけです。
 しかし、こちらの記事によると、どうやら図書館がそういう空間を整備するとしても、全く的外れではないみたいです。年を取るとその根拠の原文を読むのが面倒なので、こうして頭の柔らかい学生さんに熟読してもらえるのは非常にありがたいことです。

 加えて、そもそもそれまでそういう需要に対応して施設を整備してこなかった自治体、ひいては国策の問題でもあるのだから、別に学校教育の立場で整備しても、社会教育の立場で整備しても良いではないか、という意見に落ち着いたような気配ですね。
 また、最寄りの大学図書館が地域住民に開放されているような場合は、そこが高校生の自習に利用されるというケースもあるらしいです。

 あ、でもぉ(特に深い意味はありませんがアニメ『けいおん!』の唯ちゃんの発音で。)、地域による対応の差、と言うか、「カネの差(あるいは誰かの陰謀あるいは努力により生じる予算上の手厚さの差とも言う)」はやっぱり大きいと思うのです。いえ、お金がなくても努力と気合いと根性で何とかできてしまうケースももちろんあるでしょうけれど、やはりお金はあった方が良いかなあ、と思います。できれば継続的に確保できればなお良し。

 また、例えば自分が暮らすつくば市の、同じ市内においても、山の麓の昔ながらの農村地帯と、TXの駅が最寄りにあるような学園中央部では住民層が全く異なるように、1つの自治体で画一的なサービスを行うのではなく、ある区域で公民館の休眠部屋を作りたくないなら公民館を自習室にすれば良いだろうし、自習場所提供を図書館の利用者サービスとして位置付けるならそれでも良いと思います。
 時々見かける、小学校の中に福祉施設が、あるいは児童館と図書館が同じ建物に同居しているような複合施設に地域の需要があるなら、その中に自習室があったって良いでしょう。もしかしたら異なる世代の交流にもつながるかも知れませんし。公的サービスはある程度当てにしても良いんだということは若者に知っておいてもらった方が良さそうだし。
 というわけで、何でも闇雲に嫌!と言うんではなく、色々な見方で考えるべき、というのが今回の教訓でした。

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2009.07.04

で、「10.19」って結局何が起きたの?

 一度Twitter界隈にも書いた話ですがこちらにも。

 Wikipediaで偶々見つけた、「10.19」の解説文のお話。

 「10.19」が日本プロ野球史上重要な事件らしいことも、ファンには思い入れの深い試合だったことも伝わってくるんですが、結局この試合の結果何が起きたのかが非常に分かりづらい解説です。

 ちなみにWikipediaの「10.19」文頭部分に記された概略。論文で言えばアブストラクト。

10.19(じってんいちきゅう)は、1988年10月19日に川崎球場で行われた日本プロ野球のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ、以下「ロッテ」)対近鉄バファローズ(のちの大阪近鉄バファローズ、以下「近鉄」)第25・26回戦(ダブルヘッダー)を指す。「10.19の悲劇」とも称される。

日本プロ野球史上、最もドラマチックだった日のひとつであり、かつ昭和時代のプロ野球最後の名勝負としても長く記憶されている。

 ……ロッテvs近鉄の試合の結果はどうなって、その結果何が起きたのか何も書いていません。

 一方、同じくスポーツ界でよく知られる「ドーハの悲劇」の解説の文頭部分。

ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日、カタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの国際試合(1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まった事を指す日本での通称である。

 「いつ」「どこで」「誰が」「何を」して「その結果」どうなったかが、この字数によくまとまっています。

 「10.19」の記事を読むと、ダブルヘッダー第1試合終了から第2試合開始まで僅か23分しかなかったことも、当時の近鉄とロッテがともに名将、名守備、名打者、そして名投手を抱えていたことも、よーくわかります。

 しかし、「10.19の悲劇」が日本プロ野球史上に残る名勝負であった、という事実と一緒に、
「近鉄がロッテとのダブルヘッダー2試合を制すれば逆転リーグ優勝の可能性があったが、第2試合において延長10回の接戦の末引き分けとなりリーグ優勝を逃した。」
という事実をどうして併記できないのでしょうか。
 もっとも、「10.19」は実際にはその試合を見たことがなく(野球に興味薄)、「ドーハの悲劇」はテレビでその場面を見たことがあったので(開幕から数年間はJリーグにも興味があった)、それにより後者への理解度が上がったのが大きいとは思いますが。

 せっかく「10.19」の試合の経過や前後のエピソードなどがとても詳細に記述されているのに、アブストラクトのまずさにより、この事象に関する予備知識のない者の脳内に「?」を発生させまくってしまうという残念な記事です。事象に対する過剰な思い入れ故の饒舌さは時に真実の伝達に大きい支障を及ぼすということが良く分かる事例でもあります。

 以下は全くの余談ですが、自分の場合、本業でよくシステムのマニュアルに目を通す機会があります。そういうマニュアルで、メーカ公式マニュアルであるにも関わらず、作業の詳細は記されているのに、
「その作業はどのようなシステム上の権限を持った人ができるのか?」
「その作業により最終的にどんな結果が得られるのか?」
「その作業の後、システム上でどんなアフターフォローが必要か?」
についての記述が不足しているか全くないものというのがあります。
 逆に記述が冗長すぎて困るものもたまにあり。そういうマニュアルを面倒がって「読みながら」作業をしたりすると、最後に極めて重大な結末――例えば「この作業を行った結果、○○ができなくなります」――が書いてあり、取り返しのつかない(あるいは取り返しがとっても面倒な)ことをした!と悲鳴を上げたりするのです。

 今回のWikipediaの記述を見て、何故かその経験を思い出してしまいました。いえ、業務マニュアルを作成する上で「事象に対する過剰な思い入れ」もへったくれもないと思うので、両者に何の関係もない筈なのですが。共通点は、キーワードが「残念」というだけで。

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