スキルアップのための勉強時間の確保について
連れ合いの眼病、目薬+内服薬の効果でどうにか経過は良好のようです。きっと明日明後日養生すればだいぶ回復することでしょう。1日も早い回復を願うばかりです。
さて今日は、協力関係にある図書館同士の交流セミナーに出てきました。退職を間近に控えた大先輩の皆様から貴重な体験談などを伺う他、以前同じ場で開催された、仕事の将来について語る世代別討論会の総まとめ議論を行うというのが本日の趣旨でした。大先輩の皆様のお話を伺って、昔の図書館で働いていた人は現在の我々よりもマメに、スキルアップのための業務研究論文の執筆、あるいは外部図書館との情報交換に取り組んでいたようだという印象を受けました。
そんなことを考えていたら、ちょうど同じことを考えた方がいたらしく、「何故昔はそんなに勉強できたのか?」という質問を大先輩に投げかけられていました。大先輩の回答は、
- 日常業務の中に分析研究すべき事項は常に存在する。自分はそれらを分析し実施しただけ。意志があれば実践できること。
というものでした。もちろん昔話(20~30年前)なので多少の誇張は入っているかも知れませんが、その発言に嘘はないと筆者は思います。このほかに以下のような要因があったのではないでしょうか。
- 現代と比較して抱えていた仕事の絶対量が少なかったので勉強する時間の余裕があった。
- 忙しくても勉強する時間をひねり出すだけの強い向学心があった。
- 現代ならコンピュータ化が可能な業務(例.利用者や使用される資料に関する分析)について人力で工夫して行う必要があり、従って日常業務そのもので研究を行う機会が多かった。
特に3に関してですが、現代の方が業務の機械化により仕事自体は全然楽になっているのは確かでしょう。しかし、仕事を楽にするための技術にはまだまだ改善の余地があります。そうした意味で努力のし甲斐は存在すると言えるでしょう。もっとも、努力して楽になったところへ新たな仕事を背負い込んで自分の首を絞めてしまうという危険性とも常に隣り合わせですが。
また、見過ごせない現代の風潮として、「公務員が余裕を持つ」ということ自体が許されなくなっている。と言うより、社会全体が倫理にとらわれて不寛容になっているということがあると思います。倫理にとらわれることがマイナスとは言いませんが、社会的規範がなし崩しになるのに反比例して何にでも「倫理に照らした正しさ」を求めすぎているのではないか?それによって何か違う大切なものを失ってしまっているのではないか?と、声に出して叫びたいです。
しかしそんな文句をたれている暇があったら、とにかく地道にスキルアップのための勉強や他館との交流を続けることが、結局は将来につながるのだと信じたいところです。まずは、そうした機会があればできるだけ逃さず実践すること、そして、自分の後に続く世代が同じように実践できるように道をつないでおくことを心がけたいと思います。何だか抽象的な結論になってしまいましたが、今後も私的課題のひとつとして掲げ続けていくつもりです。
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