シンポジウム「大災害における文化遺産の救出と記憶・記録の継承 ―地域コミュニティの再生のために―」(2013.3.2開催)聴講感想
3月2日に筑波大学春日キャンパスで開催された、筑波大学 知的コミュニティ基盤研究センター公開シンポジウム「大災害における文化遺産の救出と記憶・記録の継承 ―地域コミュニティの再生のために―」を聴講してまいりました。
以下、各講演の簡単な概要と感想です。そのうち公式に詳しい記録が刊行されるのを期待しています。
最初は基盤研究センター長の杉本先生からご挨拶。続いて筑波大学白井哲哉先生から本日の趣旨についてご説明がありました。趣旨はシンポジウムのページにも載っていますがまとめると次のとおりです。
被災地の文化遺産の救出は地域コミュニティの再生に関わる基盤情報である。図書館、文書館、博物館は地域文化遺産を収集、公開してきた。本日登壇いただくのは、文化遺産の救出・保全と地域コミュニティの記録・記憶の継承に取り組んできた方々である。
「大震災の被災地で文化遺産を救済・保全する ―茨城史料ネットの活動から―」高橋修(茨城大学人文学部教授、茨城文化財・歴史資料救済・保存ネットワーク準備会)
「茨城文化財・歴史資料救済・保存ネットワーク準備会」(略称:茨城史料ネット)の設立は、震災の発生後、歴史学者として何か記録の継承が必要であると考えたのがきっかけであった。
震災後2、3ヶ月で状況が変化。民家に保存されている歴史資料の保存について相談を受ける機会が増えた。こうした状況を受けて2011年7月に史料ネットが設立された。
その後、茨城県北茨城市、鹿嶋市、ひたちなか市のほか、福島県いわき市、双葉町などの旧家で、震災で棚から落ち散乱した資料や津波浸水資料の救出・保全活動を実施した。
また、これら活動の際には、これまで存在が把握されていなかった資料についても発見されている。
公的な古文書が個人の家に残されているのが日本の特色。地域の記憶を伝えるアーカイブ的観点から文献資料を含めて史料保存が求められている。地域社会には指定級の文化財やこれまでの文化財の範疇にはおさまらない重要資料が大量に眠っている。
(救われない文化財について)
一方で、いつの間にか片付けられてなくなってしまった被災資料もあった。個人財産であるという扱いから市町村が保全への関与を拒否したケースもある。
震災はまだ終わっていない。史料ネットの活動はまだ続いていく。
(今後について)
引き続き、未指定文化財も含めた被災文化財の実態を把握する努力や、文化財救出に当たってのボランティアも加えたコーディネートのほか、地域防災計画に文化財保護対策も盛り込むなどの対策について、今後必要であると考えられる。
「資料保存と地域博物館の現場」木塚久仁子(土浦市立博物館学芸員)
土浦市立博物館は開館25年。自身の学芸員歴と同じである。
震災翌日から市内の文化財(指定・登録等された蔵やその収蔵品等)の被災状況の調査に取り組んだが、これ以外の資料の救済については市民により持ち込まれたものへの対応のみで十分と考えていた。
しかし、学芸員に茨城大学の高橋先生から資料調査のアンケートのメールが寄せられたのを機に、指定文化財以外の歴史資料調査も必要であると気づかされた。
その後2011年9月から、6部署10名の学芸員で地区を分担して訪問、資料調査を開始した。資料調査については市の広報誌で告知、区長の了承を得て、チラシを持って訪問して回ったが、資料があるという情報があったにも関わらず訪問拒否する家や、既に資料を処分してしまい「博物館、来るの遅いよ!」と言われたケースもあった。
博物館が資料を守ってくれるのかどうかを理解していない市民も多い一方で、東京から移転してきたボタン工場から情報が寄せられ、新たな資料(くるみボタン製造用具等)の発見に繋がったケースもあった。
こうした歴史資料調査には学芸員が共通認識を持つことが必要であると考え、
「市民が各家庭で資料保存をしてきた時代は終わろうとしている。今後は自治体が保存に取り組むべき。」
「歴史資料は保存、次に活用を考えていくべき。」
と言った認識を改めて文章化し、責任を明確化した。
また、市立博物館として、自館所蔵資料のみによるテーマ展「記録された天変地異―土浦の洪水・地震・大風―」(リンク先:PDF)(2012.7~9)も実施した。
課題
(博物館の役割)
(1)ハコ(収蔵庫) (2)情報収集 (3)市民の信頼 が期待されている。しかし現状は、(1)ハコは溢れて限界 (2)現状は歴史資料の所在情報が未確認で、調査の機会や時間もない (3)学芸員の調整能力により異なる という状況である。
(博物館の現状に対する学芸員の意識)
学芸員は、(1)歴史資料が失われていくことへの危機意識 (2)地域博物館の使命 (3)専門家としての使命 (4)他の博物館や自治体の学芸員との連携 (5)市役所の他部署との連携 について意識すべきであるが、現状は全てできているわけではない。
また、前述の資料調査の実施に当たって決裁に時間が掛かり、震災6ヶ月後の開始となってしまった。加えて、当館の大半の学芸員の専門は考古学であり、古文書学を専門にしている者が少ないという問題がある。実際に学芸員が、古い鳥籠が愛鳥の歴史上貴重な資料であるという価値に気づかず、鳥籠が廃棄されてしまったケースもあり、その件は発表者の心に重くのしかかっている。
(今後の展望)
学芸員の横の繋がりの強化、博物館の日常管理の充実、そして最新の保存修復情報の研修受講とその結果の共有が大事と考える。井の中の蛙にならないようにする。
また、地域博物館だからできることは、細やかな資料の収集に尽きる。そうしたことをやってくれるのが地域博物館であることをもっと市民に広報してまいりたい。この他に、収蔵庫の確保の声高な主張、正職員としての学芸員の雇用、市民への資料保存に関する広報の義務も重要である。
「東日本大震災における被災文化財への対応と今後の課題」松井敏也(筑波大学芸術系准教授)
自分は資料修復・保存が専門であるので、資料を救出、修復しまた元に戻す。茨城県内には保存修復を専門にしている方は少ない(いない)。
危機管理体制として、資料の所在確認、情報化、データベース化、保管、共有化、公開、そしてレスキューの組織化が必須。コーディネーターの必要性を実感している。
また、日本の場合は公的機関では資料保存修復は実施しない。文化庁の文化財レスキュー事業は、文化財指定の有無を問わず実施されるものである。しかしレスキュー隊の派遣はあくまで資料救出が目的。保存修復までは含まれていない。
(物的被害)
被害の大きい所では文化財調査に手が回らない。あるいは文化財として認識されていないため調査対象とならない。
(石巻文化センターでの活動)
津波の浸水により、「毛利コレクション」などの資料が被災した。救出された文書はクリーニングを行った。誰にでも簡単な技術でできる方法を採用した。
また、作業環境として適切かなどの判定のため、「空気質調査」を実施したところ、 1階収蔵庫が通常の博物館ではあり得ない値で有機物汚染されていることが分かった。
(山田町での活動)
資料を調査に行ったが、まず町の方に「我が町にもポルシェが!」と見せられた、津波で漂着して引っかかっているポルシェに衝撃(笑)。
ここでは文化財が収蔵庫ごと津波に遭った。流失しなかった資料が仮テントに保管されていたので、収蔵庫を綺麗にした後運び込みを行った。文化財レスキュー隊は、 指定資料のみを綺麗にして置いていった。そうせざるを得ないのであるが……。
また、ここでは三菱商事の支援により、マッコウクジラ標本修復も行われた。
(石巻雄勝伝承館収蔵資料)
指定管理者管理施設。指定管理者が撤収完了し、建物の解体決定後に入ったところ、津波被害を受けた文書が残されていたことが判明した。筑波大学で被害文書を修復。ここでは学生に30分手順を教えればすぐできる技術(メチルセルロースを使い保全、和紙で修復)を採用した。
(その他)
今後は福島の文化財の放射線量調査も予定している。
資料修復については、例えばこのニワトリの標本の場合(会場では写真を表示)、30cmまで近づいてやっと修復痕が分かるレベルの標本修復を行っている。ただ、石碑が作業工程上のミスで、上部が傾いたままの状態で接着剤の樹脂が固まってしまい綺麗に仕上がらなかったようなケースもある。
今回は結城市にある水野忠邦の墓など、多くの墓石も倒壊している。これらはすぐ戻せそうに見えるが簡単にはできないのが実情。
(今後の課題)
被災した現場では被災状況の把握、程度の把握が専門家がいないと難しい。筑波大学での雄勝の資料修復の場合、中身の読解は古文書専門家、目録整理は図書館で、という大学ならではの分担ができた。
また、被災情報の収集と精度の見極め、地域との関係、複数機関との連携も大事。文化庁のレスキューが動いたことで地域独自の活動が停滞したケースも存在する。
そして、やはり資料の救出や修復において、そうした各種調整を行うコーディネーターの存在は必須である。
「福島県双葉町における被災文化遺産救出・保全の現状と課題」吉野高光(福島県双葉町教育委員会学芸員)
自分は震災当日は勤務先(双葉町歴史民俗資料館)の発掘調査に従事していた。
双葉町歴史民俗資料館は平成4年に開館。自然誌資料も収集している。館長以外に正職員は自分のみであり、臨時職員も入れた体制で運営している。
今回の震災では建物周辺が液状化し、棚にあった収蔵資料が落下した。積層棚が棚ごとずれて幅寄せされ、ガラス水槽も落下、破損した(中のドジョウ1匹は救出(2012年死亡))。
震災直後、町内状況把握調査を行ったが途中で負傷者救出なども行い調査どころではない事態だと分かり中断した。その後は被災者支援に回り、町ぐるみで埼玉に避難し、加須市の騎西高校内に寝泊まり、勤務することになった。
2012年4月に震災前に福島市の業者に修復を委託していた剥製標本のほか、館内に残してきた刀剣類等もあわせて福島市の県立博物館に託することになった。
収蔵品の県立博物館への移送に当たっては、双葉町への一時帰宅物品持ち出しと同様の放射線量基準スクリーニングを実施し、安全性確認後に運び出した。なお、館内放射線量は0.16μSv/h(安全値)であった。
その際、収蔵品には各々の測定値を記録した票を貼付した。梱包などの作業を短時間で行う必要があったため多くのマンパワー協力をいただいた。持ち出した収蔵品の線量はその後再計測したところ、持ち出し時の半分~1/3に減少していた。
2012年5月、福島県被災文化財等救援本部が設立された。
震災の後しばらくは、双葉町は警戒区域のため文化財レスキューの対象外とされていた。その後国の協力が得られることになったため、まずは収蔵庫として旧相馬女子高を確保し、環境測定し収蔵庫として使用可能と分かったため環境を整備した上で、梱包作業6回、搬出作業3回を実施し、コンテナ300箱弱を搬入した。対象収蔵品は県立博物館移送時同様、放射線量スクリーニングを実施した。資料館内に放置されていた標本はカビなどの害を受けていたため、燻蒸を施した。
(今後の課題)
残してきた資料の今後の扱いであるが、収蔵庫が確保できなければ救出もできない。 加えて、国の予算は平成24年度で終了してしまうので、その後マンパワー協力をどうするか?という問題もある。
町の遺跡(清戸迫横穴)や、大杉など指定樹木の保護の問題もある。こうした不動産系文化財はどうしようもないのが実情。仏像など重量物の救出や、保存指定建造物の倒壊をどうするかも課題。
伝統的な民俗芸能、無形文化財の今後の問題も大きい。まず、芸能用具のレスキューを行った場合も、保管場所の問題をどうするか?という課題がある。そして、伝統芸能保存団体においては、用具が津波で流失したり、用具を現地から救出したとしても、全国に構成員が散らばってしまい練習がままならないという問題も生じている。こうした伝統芸能の伝承には、伝承者が集まり練習を重ねるための交通費や宿泊費なども考慮に入れた補助金なども必要と考えている。
そして、救出した資料をいかに展示して活かしていくかの手立ても今後は必要と思われる。今後5、6年、あるいは130年は町に帰れないという説もある。仮設収蔵施設では間に合わないのではないか。
これからも、以上のような状況が忘れられないようにしていかなければならない。
「北条の歴史的町並みの竜巻被害と復興まちづくりの課題」安藤邦廣(筑波大学芸術系教授)
2011年3月の東日本大震災、2012年5月につくば市北条地区ほかを襲った竜巻の後の復興支援への取り組みを通し、歴史的街並みの保存について、災害に見舞われた場合、一体何ができるのか?について本日は考えてまいりたい。
北条地区は、歴史的街並みで観光客を呼ぶ一方、高齢化も進んでいた。TX開通に伴いどのように街づくりをしていくか?に震災以前からつくば市、筑波大学共に取り組んできた。
北条の土蔵造りは、川越より歴史が古い。本来重文指定されてしかるべき建物もある。しかし、つくば市の体制の弱さ、住民の関心の低さから文化財的な価値が認識されていない。
東日本大震災で被災した土蔵については、2年かけて修復が行われた。修復に当たっては、結果として県の補助が受けられることになったが、当初は居住者が身銭を切る覚悟も必要であった。
日本の伝統建築は、言わば「肉を切らせて骨を残す」仕組みである。瓦も落ちることで建物本体を軽量化して破壊から救うようになっている。
地震に遭った建物は、壁のない母屋には破損がなかったにも関わらず、壁のある土蔵が破壊されていた。これは、短時間の細かい揺れが発生したため後者の被害が大きくなったものである。
古民家の修復については、県の補助が決まるまでは、外部支援にも頼った。ベルリンフィル団員のチャリティ演奏会なども開催された。
2012年5月6日、そのように震災被害からの修復の進んでいた北条を竜巻が直撃した。
北条は一本の中央の通り沿いに商店街が形成されている。その後の調査により歴史的建造物が137棟存在していたことが判明した。通りの北側には旧来からの地主が居住し、南側には新興の商人が居住している。
中央の通りは東西に伸びているが、竜巻は南北方向へ横断した。このため通り沿いで南北方向に窓のあった建物被害が拡大した。
ある土蔵造りの建物の屋根が全面的に破損し、取り壊したいとの相談が家主からあった。行政から建物解体費用の補助は出るが、修理費は一切出ないという問題があった。しかし、専門家の目から見ると骨組みはきちんと残っていたので、修復可能と判断された。
別のガラス戸が全面的に破壊された住宅では、物品持ち去りが発生した。当初はボランティアが片付けたと思われたが、実は災害後の混乱に乗じた骨董持ち去りであったとみられる。家主がその場にいても、被災後に気持ちが動転してどうでも良くなり「壊れた物なので全部持って行って」と任せてしまったケースもあった。
市の建物撤去補助には支給期限があった。この支給期限が迫ると家主が焦り、急いで建物撤去に走りたがるという問題が生じた。
伝統建築の知識と経験を積んだボランティアの育成が今後の課題の1つである。かくいう自分も大学の本業以外に片手間でやらざるを得ない面があるので……。
北条で最も古い時期に設置されたと思われる商家(電話番号がxxx-0001番!)においては、被害を受けた明治期の住宅を比較的早期に修復するという良い取り組みを行った。また、一見昭和時代の美しくないように見える建物も、実は年代資料として貴重である(だから拙速に壊してはならない)。
筑波大による建物の調査の結果、3分の2の建造物はまだ使えるものであった。そうした知識がないボランティアがいち早く柱をチェーンソーで切断するようなことがあってはいけない。
一方で、自然の景観に配慮した街並みづくりも大事である。取り壊された建物がなくなって初めて見えてきた風景の美しさもある。
平安時代以来の歴史的な街並みや自然環境を生かした復興、そしてそこに住む人々がどのように事業を興していくかが今後の課題である。
……ちょっと長くなってしまいましたが、講演内容の概要は以上です。
この後ディスカッションも行われましたが、残り時間が少なく、少々駆け足の印象がありました。質疑や議論の内容を全て書き留められたわけではないので、内容は割愛いたします。
以下、感想です。博物館分野には素人なので、素朴に思ったことのみ記させていただきます。
実は、今回のシンポジウムは、つくば市北条地区の竜巻被害についての発表がある、というのが聴講の動機でした。北条は自分の住む同じ市内の地区でありながら、生活圏も異なる上に知り合いもいないが故に、竜巻前後を通しほとんど接点がないままこれまで来てしまったため、そこでは具体的にどのような復興支援プロジェクトが動いているのか?と言うことに関心を抱いたのがきっかけです。
結果、期待通り、この2年間にどのような手立てが北条でなされてきたか?のお話を、建造物修復及び都市計画の視点からではありますが、たっぷり伺うことができました。
目から鱗だったのは、北条の伝統建築物は、災害に見舞われた時には瓦屋根を落とすことで建物を軽量化し、頑丈な骨組みを守るような仕組みになっている、というお話でした。茨城県の震災被災家屋のうち、瓦屋根の家でぼろぼろと瓦が落ち、震災後しばらくは瓦職人の手が回らずブルーシートでカバーされたままになっていた、という風景を良く見かけていたので、
「あんなにぼろぼろになるなんて、瓦屋根はダメだ!」
と思い込んでいましたが、実際は家屋の全壊を防ぐための工夫であったということで、自分の無知を恥じた次第です。
それから、これはディスカッションの話になりますが、会場からの、
「地域コミュニティをいかに再生していくかについて考えを聞かせて欲しい」
という問いに対して安藤教授が回答された、
「北条は復興が立ちゆかない状況が実際にある。後継ぎのいない家も。つくば市民がいかに事業に加わっていくかが課題。カフェやレストランの開業の話なども出ているが、そぐわない面も。古い町なので事業契約などはなじまない。利害のない学生による期間限定の事業計画などは住民にも受け入れられやすく良い案と考えられる」
を拝聴して、歴史の長い地区と新興の地区とが多様に混在しているつくば市ならではの問題(全国的に見て決して特有問題ではないと思いますが)はやはりそう単純ではないのだと気持ちが沈む一方で、学術研究機関が多数設置されているこの市ならではの手立てもこうして可能なのだ、と、心に灯りが点ったようでした。
北条の発表以外にも、普段、恐らく学会等に所属していなければほとんど聞く機会のない方々からの発表を聴講できたのはありがたかったです。
5名の方の発表の中で、個人的に最も身につまされたのは、木塚学芸員の発表でした。
帰宅後に2011年9月頃までの土浦市の広報紙のバックナンバーを市のサイトでチェックしてみましたが、住宅への直接訪問調査に関する、その辺の話を見つけることができませんでした。恐らく、広報紙とは別に、自治会区レベルに個別に呼び掛けを行ったのではないかと推測いたします。ちなみに、もう消してしまったのかも知れませんが、博物館のサイトのお知らせ欄にも見当たりませんでした。
こういう時、行政や公的機関としては、ライフラインに直結する事柄以外では、被害を声高に語るよりも、「通常運営しています」ということのアピールに向かう傾向にあるのは分かります。
しかし、今回木塚学芸員が課題として挙げられていたとおり、行政として各家庭に眠るお宝を責任を持ってきちんと調べているという事実を知らない市民も多いと思うので、これはもっと老若男女、色々な人の眼に触れる場所でアピールしていただきたいと願っています。
この他に心に残ったのは、高橋教授の発表にあった、双葉町で地域の記憶の継承が突如断たれたが、それはきちんと繋いで行かなければならない、という言葉でした。後の吉野学芸員の発表と合わせて考えると、よりずしりと重く響いてきます。
「地域の記憶の継承」は、松井准教授が発表された石巻の事例や安藤教授が発表された北条地区の事例にも共通するものです。そして、それらの記憶の継承は、その地域に生きる人々の意志あってこそ生きてくるものだと思います。
今回の各発表では、行政の被災文化財救援体制や補助制度に対する不信や疑問が、主に大学の先生方から呈されていました。もちろんそれらの公的制度が充実しているに越した事はないのですが、まず、肝心の地域住民が「歴史の証となる記録や記憶を残していきたい」という意志の下に自ら動かない限りは、どんなに良い制度ができてもそれらは絵に描いた餅になってしまうに違いありません。また、大学やその他の専門団体による文化復興支援には、コーディネーターによる細やかな調整が必須である、という訴えもありましたが、そうしたコーディネートは、地域の人々と相互に理解し、意志や意欲を適切な方向に繋ぎ、盛り立てていけるものでなければならない、と考えます。
復興も、復興支援も、なかなか単純明快にはいかず難しい面が多いと思います。しかし、であるからこそ、今回のシンポジウムのように皆で知恵を合わせて考えながら、ゆっくりでも歩みを進めていくことが重要であり、また、苦しみながらも先に進まなくてはいけないことなのだ、と、痛感させられました。
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