2011年3月11日のこと
お久しぶりです。
当方つくば市在勤ですが、あの3月11日の「東日本大震災」発生時には職場にいました。その時の自分の状況を、まだきちんとどこにも書き起こせていないことが、ずっと気になっていました。今回ようやく気持ちが落ち着いて書く気になれたので、以下、お目汚しご容赦願います。
当日の状況
当時の所属グループは私を含めて7名、うち4名が正職員という体制。ほかに隣室に別の1グループがいました。
同じグループの正職員の2名は東京出張、1名は家庭の事情で休暇という状況でした。
2011/03/11 14:46~
地震発生。当時、職場の机に向かってました。ゆっくりとした長い揺れが来て、その後、過去の人生で経験したことのない激しい揺れに襲われ、書棚もがたがた揺れ、物も落ち始め、瞬間停電も発生したので、これはやばいと外へ逃亡(後にこれを後悔することになります)。
ちょうど車椅子のお客さんがいらしていたので、車椅子を外に出すため閉まりかける自動ドアを懸命に押さえました。一息ついて考えてみたら、自動ドアのスイッチを切れば良かったのです(^_^;)。そんなことも思い付かない程動転してました。日頃から早合点な性格とは言え、他の色々も含めてもう少し冷静に動けても良かったんじゃないの?と自戒。
何度か繰り返された揺れが落ち着いた後、サーバ室へ。高い所の物が複数落ちていたのと、サーバラック1台の金属壁がずり落ちていたのとを除き、サーバは見た目全部無事でした。後日サーバを再起動後にRAIDが1台死んでることが判明しましたが、その時点では分からず。
ほどなく部長が駆けつけ、当日その場にいた人間と施設の無事を確認して行かれました。
ちなみに不在の職員3名中、休暇中の1名は近隣にいたため間もなく無事確認。出張中の1名からは地震直後に携帯メールで職場メールあて無事の連絡があるも、こちらが動転していたので確認は1時間後。更に1時間後ぐらいにもう1名の無事も携帯メールで確認。携帯の通話は完全にアウトの状況でした。
後日訊いた所1名は東京に1泊し翌日帰還、もう1名は動いている交通機関を辿り当日深夜に帰還できたとのことでした。
2011/03/11 16:00頃~
さて、自分の席に戻ると、床中が書類の海と化していました。日頃から整理整頓とは程遠い生活を送っていたのが仇となり、拾っても拾っても、シュレッダーにかけまくってもなお片付かない海。皆、建物内の確認作業に行ってるのに何故私はこの海と格闘しているのか……。でもこの海を撤去しないと、メールチェックすらできない(泣)。
作業途中で、本館の建物内のネットワークにトラブル発生の連絡あり(私は別館にいます)。派遣さんを伴い駆けつけると、地震の揺れでL2スイッチの電源ケーブルが抜けてました(^o^;)。それにしても、このスイッチが止まると結構広範囲のエリアでLANが使えなくなる筈なんですが、1時間以上も誰からも通報がなかったのはやっぱり地震でみんな動揺してたか、地震があったから止まったんだと諦めていたのか。謎です。
この前後に、隣町や東京に暮らす実家の家族や、近隣に勤める連れ合いの安否を確認。その間にも、地震発生直後から付けっぱなしにしていたNHKのニュースでは、状況が時時刻々と明るみになり、東北で尋常ならざる恐ろしい事態が発生していることが分かりました。
そのような事態なので、非常勤さん達は定時より少し早めに家に帰し、定時後に残っていた正職員、派遣さんも少しずつ退勤し始めました。しかし1名、東京から通っている若者が帰宅難民に。ひとまず彼女が当地の寮に入っている友人とコンタクトが取れるのを待機。その間に東京方面の友人1名の無事を確認。連れ合いの車に彼女とともに乗り合わせて退勤したのが19:30頃だったと記憶します。
道すがら、交通信号が正常に動いている交差点と真っ暗になっている交差点とが入り交じっていたので、同じ市内でも通電地域と停電地域とに分かれていることが判明しました。若者を送り届け、恐怖におののきながら、20:00頃自宅へ帰還。
2011/03/11 20:00頃~
今考えると、なんで写真を撮っておかなかったのだろう?と思いますが、玄関のドアを開けると、足元に下駄箱の上のあらゆる物が落ちて、山盛りになってました。あらゆる物。そう、かつて「要らん」というのに半ば泣き落としで嫁入り道具として持たされた、でっかい北海道製木彫りの熊も。熊、軽いささくれ状の傷こそできてましたが、流石嫁入り道具、きちんと形を保っていました。
とにかく玄関の物をどけないと家の中にすら入れないので、玄関の蛍光灯を付けて(うちの地区は通電していました)、殺伐と撤去。中に入ると、洗面所やキッチンのシンク、リビングやダイニング、書物部屋の床。あらゆるスペースに高い所にあった物が落ちまくっていました。連れ合いのガンプラ等も全部落下。そう言えば人間をヤツメウナギの餌食にすると、あらゆる穴という穴に入り込むんだっけ……とあまり関係ないことを連想しつつ、泣きながら物を片付け、最小限の生活動線のみ確保。食器棚があるため最も被害を心配していたダイニングは、意外にも数客の食器の被害のみで済みました。食器棚が観音開きでなく引き戸だったのと、また、生活に最も使っている食器のある側の引き戸が、内部で落下したプラスチックの容器が絶妙な位置に引っかかり、ストッパーになったのが功を奏したようです。素晴らしかったのは、確か連れ合いの友人の引き出物でいただいた、ティファニーのグラス。食器棚の天辺に箱詰めで置いてあって落下したのに、ひびも入らず無事でした。包装も丈夫だったのかも知れませんが、多分本体も頑丈だったのでしょう。
2011/03/11 21:00頃~
ついでに断水が予測されたため、連れ合いが浴槽に出るだけの水を溜め始めました。当日の自分のツイートを見ると、21:02に「既に水道から水が出ません」と書き込んでいるので、21時前には完全断水したと思われます。もちろんキッチンのシンクが埋まっていたため料理もできる筈がなく、連れ合いが素早く確保していたカロリーメイト等乾物とペットボトルの水で夕食を済ませました。
そんなこんなしている間に、TwitterのTLを眺めると、続々情報が入ってきていました。東京の交通機関は全滅らしい。TXの線路は2箇所陥没。東京勤務の友人の何人かは帰宅難民に。逆につくばで足止めとなり、何故か大学の学生さんのUstream番組に出演している方もいたり。明日観に行く予定だったお芝居も公演中止の可能性あり(これは実際公演中止となり、その後友人の尽力で振替公演を観に行くことができました)。
その時個人的に情報収集してTwitterにRT等もしていた記録は、自分のTwilogに残っています。翌日の記録も見る限り、深夜3:00頃までは起きていたようです。
――以上、ひとまず地震当日の出来事のみ記しました。かなり記憶が薄れてきており、上記のTwilogや当日のメールから記憶を掘り起こしましたが、まだ抜けがあるかも知れません。
当日中の図書館界の動きとしては、まず図問研がブログ(ともんけんウィークリー)の「3月11日三陸沖→東北地方太平洋沖地震についての情報をお寄せください」 で情報を募集していたのが、最も早かったと思われます。その後が、savelibrary@ウィキ(現在はsaveMLAKに統合)でしょうか。
また、自分の所のシステムの状況を振り返りますと、他の地元研究機関のシステムやネットワークの多くが壊滅していたあの状況でも止まらなかったうちの職場のネットワーク……凄いです。ただ、これは地震の翌週以降の話となりますが、電源の一部に故障が生じた関係で、システムがしばらく縮退運転になっていました。また、自分自身も計画的でない計画停電に振り回され、早朝出勤でサーバを止めたり、「緊急停電可能性あり」の報に泣きながらサーバ停止を決定したりしていました。
連れ合いのいる図書館は地震で資料が落下しました。閉架書庫は現時点で未だに復旧できていないと聞いています。東北に比べたら軽いのかも知れませんが、まだまだ地震の爪痕は消え失せていないのでした。